そのぎこちなさに、緩む頬。


                            
理の、


長きに渡った新政府軍と旧幕府軍との戦いがこの地、函館で終結して暫く経つ。
五稜郭に集った旧幕府軍――蝦夷共和国を作り上げた人々の、その中心となった幹部達は、降伏後に江戸へと護送され、陸軍奉行並という立場にあった新選組局長、土方歳三は新政府軍の函館総攻撃の折、孤立した弁天台場を援護するべく出陣するも、腹部に銃撃を受け戦死したとされている。
激しい戦闘の行われた蝦夷の大地は多くの人々の血に濡れ、しかし、遅い春を越え、短い夏を迎え、鮮やかな秋の季節に移ろう内、徐々にではあるが確実に復興への道を進みつつあった。
その函館の地で、彼女――雪村千鶴は日々を生きている。

千鶴の、元々の育ちは江戸である。だが千鶴がまだ十代も半ばの頃、蘭方医であった父を追って京へと向かい、その選択が後々、千鶴の未来を大きく変える貴重な出会いを幾つも生む事となる。その最たる人物が、当時、京の治安維持の任に当たっていた新選組の、副長であった土方歳三だ。
鬼の副長と言われた人と出会い、新選組と共に過ごし、多くの季節を共に迎えた。多くの出会いは多くの喜びと、それに付随するように多くの悲しみを千鶴に与えたが、それでも、たった一人で全てを背負い、傷も、悲しみも押し殺そうとする強い人の背をずっと見つめて、甲府、宇都宮に会津と進み続けた。土方に突き放されても、心ひとつで海を越えて蝦夷の地を踏んだ。
そうして、凍て付く季節の間、誰よりも傍に置いてもらい、一足遅い春の頃、想いを通わせて。
戦火が激しさを増し、情報が錯綜する中で戦死したと伝えられているが、幕末を全力で走り抜けた人は、戦争が終わった今、そっと千鶴の傍で微笑んでくれている。

のだが。

――この時、千鶴は一人立ち竦んでいた。



そして今、千鶴の前には、土方ではない、一人の男性が立っている。
年の頃は千鶴より幾らか年上だろう。それなりに上背があるが、笑うと両の頬に出来るえくぼが、こうして向かい合っていても威圧感というものを感じさせない。だが、その男性と千鶴には面識は全くない。

覚束ない足取りで、買い物の最中にはぐれてしまった土方を探しながら、右へ左へと視線を動かしていた時、背にかけられた馴染みのない声。それが自分に向けられた言葉だという事に気づくのに、いささか時間がかかったが、数拍の後に振り返った千鶴が男性の姿を捉えて遠慮がちに首を傾けると、聞き慣れぬその声は開口一番、足でもくじいてしまったのかと、そう尋ねた。覚えのない千鶴は、始め、どうしてそんな事を尋ねられるのかと不思議に思ったが、ふいにある事に思い至ると、真っ赤になって目を見開いた。
無意識に半歩後退ると、足元で下駄がカコンと、まるで千鶴の狼狽を表すように小さく音を立てる。
常とは歩き方が異なる事は自覚していたが、まさかそんな誤解を生むとは思わなかったのだ。たまらなく恥ずかしく、しかし千鶴が難儀していると思って声をかけてくれたであろう人に急いで首を振ると、千鶴の心情を知らぬ人は、今度は荷が重くて困っているのかと尋ねた。よかったら自分が持ってやろうか、とも。
ありがたい申し出だと思いながら、しかしそれにも千鶴はふるりと首を振る。
しっかと腕に抱えている包みは女の腕でも充分持てるものだからだ。だが、この荷が起因して土方を見失ってしまったという事実と自分の落ち度には、自然と頭が下がってしまう。



一方で、その様子をつぶさに見ていた男は、己の心の臓が常より騒がしいのを感じていた。
千鶴自身はあずかり知らぬところだが、男の目から見ると、真っ赤になり、目を伏せる千鶴の様子は自分の厚意に恥じらっているように映る。そして、声を掛けた時は全くの善意だったが、その容姿をしっかり目にすると、なかなかどうして、そこいらにはいない美しい娘である。
雪国の厳しさに負けぬ強さを持つ女にはない、たおやかさ、愛らしさが目を惹く。その華奢な肩から胸元にかけて、布の上に咲いた薄紅の花は、まるで目の前にいる年若い娘のようだ。
このまますぐに背を向けてしまうのは何とも惜しい気がして、もう少しだけでも傍に、と、視線を足元へと向ける千鶴の肩を軽く叩く。ようやく顔を上げた娘の黒目勝ちな瞳が男を見上げて、その澄んだ眼差しにじわりと手のひらが熱くなるのを自覚した。

「……どうしたんだ?浮かない顔を、しているようだが」
「え?――あ、大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます。ただ、ちょっと……一緒にいた人とはぐれてしまって」
「それは、家族の人かい?」
「えー、と……はい」
そこで眉を下げて頷く千鶴に、男はなるほどと頷く。
「そうだったのか。でもなぁ、この辺は人の通りも多いから、下手に動くと余計に見つからなくなるかもしれないな。――よし、お前さんさえよければ、連れが見つかるまで俺が一緒にここで待っていよう」
男にとっては我ながら自然な流れで口にしたと思った言葉に、しかし千鶴はとんでもないと左手を何度も振る。言われる通り、千鶴らの横を通り過ぎる人の数はそれなりに多く、闇雲に捜し歩く事が得策ではない事は分かるけれど、見ず知らずの人の厚意にそこまで甘える事は出来ない。
「いえ!そこまでしていただくわけには」
「なに、遠慮はしなくていいんだ」
「でも……」

(ど……どうしよう?)

笑顔で言葉を遮られて、続ける言葉に困ってしまう。
自分の事を気遣ってくれているのだろう人を思えば強く断る事が心苦しく、しかしこうしている間に千鶴の事を探してくれているであろう土方の事を思えば、話をしている間にすれ違ってしまいやしないかと気もそぞろになってしまう。ちらりと周囲に視線を向けてみるも、望む姿は見当たらない。その事に、心の内だけで、千鶴はそっと息を吐く。
すると――


「人の女房を口説こうとは、なかなか胆の据わった野郎だな」


聞き間違える筈がないその声に、千鶴は勢いよく後ろを振り返った。
「土方さん!」
両の腕を着物の袂に入れ、悠然と近づいてくる人に安堵に満ちた声を上げる。

ほっと肩の力を抜く千鶴のその後ろで、一方の男はといえば、それまでの笑みを引っ込めて、蛇に睨まれた蛙の如く固まっていた。女房、女房、と、一つの言葉がこだまのように頭の中を巡るばかり。ごくりと、無意識に上下する己の喉が、からからに渇いている事に気づかぬまま、ただその場に立ち竦む。

突如現れた地を這うような、どすの利いた声の主は、同性の男が見ても認めざるをえない程、非常に整った容貌をしており、それが鋭い眼光を更に鋭利に研がせている。帯刀すらしていないというのに、その目に射られると、まるで白刃を首元に突きつけられたような錯覚を覚える。
身じろぎ出来ないでいる男から視線を外した土方は、漸く見つけ出した千鶴に一つため息を吐くと、不機嫌そうに名を呼んだ。
「何やってんだ、こっち来い。……ったく、勝手にふらふらと傍を離れんじゃねえ」
「す、すいません」

謝りながら、慌てた様子で土方の傍らへ歩を進める千鶴の足取りは朝と変わらず、まだ覚束ない。
鴨の歩みのようにひょこひょことぎこちなく歩く姿に、土方は己の所業を頭の片隅で若干反省するものの、それを隠そうとする千鶴の努力には緩む頬を禁じえない。
とはいえ、常にも増して隙が多い今日の千鶴に、案の定くっついていた男を見やる目は、当然の事ながら温かみの欠片も含まれていなかった。傍に立った千鶴の、頬の横で垂らしている髪の一房を指に絡めると、視線だけは不届きな男に向ける。
「おい、お前。目の付け所だけは認めてやるが、声をかける相手を間違えたな」
言葉を紡ぎながら、何度も千鶴の髪に触れる無骨なゆび。
その度に陥ってしまう、自分自身に触れられているわけではないのに、頬を撫で上げられているような感覚。足元がぐらついて、自分を保っていられなくなるような。その波に千鶴は、きゅ、と下唇を噛んで耐える。すると、紅を塗っておらずとも赤い唇が更に赤みを増す。
頬も同じように赤に染めたその顔は、先程までとはまた異なる一面を覗かせて、懲りもせず目を奪われそうになった男は、土方の瞳が己を映し、すと細められた事に気づくと息を詰めて視線を逸らした。
その耳朶に届くは低い低い声。

「おい、まだ何かこいつに用でもあるのか」
土方の発した声に、は、と我に返った千鶴が、夫である人を見上げて唇を動かそうとするが、その前に、男は二人に背を向けると無言のままそそくさと歩き出してしまう。その背が寂しげに丸まっているように見えて、千鶴は慌てて声を上げた。
「あの!お気遣い、本当にありがとうございましたっ」
一度だけ歩みを緩めた背は、微かに首を動かして頷いたように見えたが、後は人の流れに紛れてすぐに見えなくなってしまった。


ふん、と鼻を鳴らして、小さくなる背を一瞥した土方は、やおら千鶴へと向き直る。
その眉間に皺が寄り、非常に分かりやすく不機嫌だと告げている。けれど、千鶴が土方の名を呼んだ瞬間、その瞳には安堵の色が宿ったのも見逃さなかったから、心配と迷惑をかけてしまった事に体を縮こまらせるばかりだ。
「千鶴」
「はい……すいません」
しょんぼりと項垂れる様子に肩を竦めると、幾分か眉間の皺を緩めて息を吐く。
「ったくお前は……だから家を出る時に手を引いてやるって言っただろうが」
「それは、子供じゃないんですから恥ずかしいですよ」
おずおずと土方を見上げ、ぽそりと言い返す千鶴は、土方の意図を清々しい程、全く理解していない。
「子供じゃねえからだろう」
わかっちゃいない、これだから目が離せないんだと何やらぶつぶつ呟く土方に、千鶴は不思議そうに目を瞬かせる。よく分からないが、分かっていないという事は千鶴に何らかの落ち度があるという事なのだろう。
土方の妻として恥ずかしくないように、直すべき点は直したい。そう思って口を開こうとして、
「お前が今日そうなったのは俺が原因だろうが」
「っ!」
先に告げられた言葉に絶句する。


土方の言葉は実際その通りなのだが、面と向かって言われると千鶴には身の置き所がない。はい、そうですと頷ける程、千鶴の経験値は高くなく、昨夜の『原因』に一気に全身を朱に染めて、自分とは反対に顔色一つ変えない土方を睨む。
「そ、そんな事、今言わないでくださいっ」
「だが本当の事だろう」
分かりやすく顔を赤らめた妻に目を細める様は、男に見せた眼光が嘘のように柔らかい。慈しむように、愛しむように向けられる眼差しは、恥ずかしさ以上に、女としての千鶴を甘く浸す。

「だから、妙な遠慮はやめろ。女房の面倒を見るのは俺の役目だからな」
「……はい」
いいな、と念を押されて、千鶴は小さな声で素直に頷いた。



「じゃあ、買い物済ませて帰るぞ」
「はい」
「ところでお前、その包みは何だ」
大切そうに両腕で抱えた包みを指摘すれば、千鶴は少々の躊躇いの後、かさりと乾いた音を立てて、丁寧な手つきで包みを開く。あらわになったのは落ち着いた色合いの反物だった。彼女自身の為のものではない、明らかに男物のそれに、土方は千鶴の顔を見やる。
「これから寒くなってきますから、これで土方さんの羽織を、と思ったんです。それで通りがけのお店の前で足を止めたら店主の方に引き止められてしまって……すいません」
頭を下げながらも、そっと布地を撫ぜる。

「お前は……」
「え?」
「いや、何でもねぇよ」
幸せそうに反物へ視線を注ぐ千鶴。何度も傷つけ、突き放し、それでもこんな己を追い続けた女。誰よりも可愛い女の為に、後どれ程生きてやる事ができるだろうか。秋の実りを二人で食し、冬は羽織で寒さをしのぎ、巡る春に、また二人で満開の桜を見上げる事が叶えば。

「それ、貸せ。あと、お前の手もだ。またはぐれちまったらいけねぇからな」

どうしようもない事を考えてしまう己に呆れながら、小さな手を取り、己の手で包む。己より高めの千鶴の体温がゆっくりと土方の指を温める。それが何とも心地よく、離しがたい。



千鶴がついてこれる程度の歩調で歩き出せば、斜め後ろから聞こえてくるぎこちない足音に、やはりどうしようもなく頬が緩んだ。



2009.9.22


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