さわさわと淡い緑が足元で揺れる。背の低い草花を揺らす風は太陽の香りとぬくもりを内包して、新しい季節の訪れを静かに伝えてくる。耳を傾けると聞こえてくるような生命の息吹。凍り付いていた雪がゆるやかに水になり地面を湿らせれば、柔らかな芽が顔を覗かせ、菫色に山吹色、つつましくも可憐な野の花がそこかしこに彩を添える。
土に草、水に風、それから太陽。―-息を吸い込めば、むせ返るような春の香り。
白の景色が時間を掛けて、暖かな色合いの景色へと移ろいゆく。
長きに渡る冬の季節が漸く終わり、数多の命が息づく季節が北の大地にもやってきた。


                            
にて春を想う


青く澄んだ空に、青色に染まらぬ白い雲が浮かんで流れてゆく、その下で。

なだらかな丘陵の先に小さな影が幾つか見える。
しゃがみ込んで何をしているのかは分からぬが、風に乗って届く声はどれも一様に楽しげだ。昼餉の時間も忘れて元気なもんだと嘆息しながらゆっくりと歩を進め、短く名を呼ぶ。すると視界の先、一つの影がその声に顔を上げた。きょろきょろと辺りを見渡し、声のした方を見やるとぱっと表情を輝かせる。やおらその場で立ち上り、おとうさまと幼い声が聞こえてくるのとほぼ同時に、着物の裾をひらひらと揺らしながら坂を駆けてくる。
前へ前へと足を動かす娘の、肩の辺りで切り揃えられた黒髪が春風に遊ばれる。少々危なげな足取りに、転んでしまいやしないかと思いながらも膝を折って迎えてやれば、軽い衝撃と共にあたたかな体がぶつかってきた。いささかもよろける事なくそれを抱きとめ、ひょいと左腕で抱き上げて目線を同じにする。

「昼餉の時刻になったら一旦戻って来いと言ったのを忘れたのか」

外へ飛び出そうとする娘に言って聞かせた言葉をもう一度口にすると、しまったとばかりに分かりやすく表情が変わる。母親によく似ているその表情に、内心しみじみと血の繋がりを実感するが、子供とはいえ約束は約束だ。眼差しを緩める事なく、ただでさえ小柄な身体を縮こませる娘を見つめていると、子供ながらに何とも神妙な面持ちでぺこりと小さな頭を下げた。
「ごめんなさい。おはながいっぱいで、おとうさまとおかあさまにもってかえろうとおもって……」
そういう娘の右手には確かに、小振りな花弁をつけた薄紫の花が握り締められている。言葉は次第に小さくなり、しょんぼりと腕の中でしおれる娘の言葉にやれやれと息を吐く。ここがいつかの京で、相手が門限破りの隊士ならば言い訳をするなと鋭く一喝していた。だが相手が娘では、厳しい顔をしてみせながらも、規律という枠組みからは遠い感情で――親という生き物は心配すると怒るものだと子を授かり知った――、風に乱された黒髪を更に手のひらでくしゃくしゃと乱す。
頭を撫ぜるというには少々乱暴な手つきに、母親譲りの大きな目を更に見開いて、ぱちぱちと何度も瞬く娘へ静かに告げる。

「家では千鶴が心配してお前の帰りを待ってるぞ。ったく、母親に心配かけるんじゃねえ――だが確かに花は喜ぶだろうから、そいつを持って早く帰ってやるか」
「うん!」
父親の言葉に弾けるように頷いて、ふくふくした頬を緩めてえへへと笑う。
一度腕から下ろし、親が迎えにくるまでもう少し遊ぶのだという他の子供達に手を振った娘は、土方の元に戻ってくるなり両手を伸ばして再び抱っこをせがむ。
鳴いたカラスがなんとやらだなと苦笑しながらも抱き上げ、幼子特有の高い体温と、母親とは反対で素直に甘えて首に擦り寄ってくる娘の背を痛くない程度の力加減であやすように叩いてやれば、首に巻きつく腕に力が篭もる。


昔の自分をよく知る面々が今を見たら驚くだろうか、それとも笑うだろうか。くしゃりと相好を崩して笑う友の顔が瞼の裏に浮かんでは消えてゆく。流石のトシも愛娘には敵わんのか、と、懐かしいと表現するには今未だ鮮やかに蘇る声がどこかから聞こえてくるようだ。うるせえよと自らの内に零し、ふと、宙に浮いた両の足を揺らしながら楽しげに歌を口ずさむ娘に声を掛けた。

「どうした、何か良い事でもあったか」
「むこうにね、さくらのおはながさいてたの。だからおかあさまにおしえてあげなくちゃ」
そう言って丘陵の向こうを指差す娘の瞳は、春の日差しを受けてきらきらと輝いている。
「お前は……誰かに似て本当に桜が好きだな」
ぽつりと呟いた声は柔らかく、ほんの僅か苦笑が混じったもので。

好きなものは親と子で伝染するのかもしれない。そんな事を考えてしまう位、娘も妻も春の花を好んだ。



本州とこの地では四季が移ろう速度が異なる。
初めの頃は遅い春を、短い夏を、駆け足で過ぎ去る秋を、雪深い冬を迎える度に、江戸で見上げた桜を、うだるように暑かった京の夏を思い出したものだが、緩やかにゆるやかに、あるがままのこの地の四季を目で心で感じれるようになって今では久しい。
夫婦の間でも、そろそろ桜の咲く頃かと、今年も三人で花見が出来るといいと、そう話していた矢先だ。
きっと桜の花が咲いたと嬉しげに話す娘に、千鶴は花が綻ぶように微笑むのだろう。想像はきっと、家に帰れば現実になる。そう確信して笑む土方の着物の襟を娘の手が掴んでくいと引っ張った。
「なんだ、どうした?」
「あのね、あかあさまがいってた。さくらはおとうさまににてるからすきなのって」
――だからわたしもすき。だいすき。

「そうか……」
嬉しくなるような事を言ってくれると、ぐりぐりと頭を撫でれば嬉しげに声を上げて笑う。可愛い事を言うもう一人の方は後々可愛がってやろうと考えながら、うららかな日向の香りがする幼子を抱いて歩みを進めた。



何をして遊んだだとか、こんな事を話しただとか、たどたどしくも必死に話す娘の言葉に耳を傾けながら歩く。

「あ、おかあさまだ!!」
次第に近づく見慣れた家、その玄関の戸を開けて表に出てきた千鶴の姿を見とめると、土方の腕に収まりながらも身体ごと揺れながら大きく左手を振る。その振動にもしっかりと娘を抱いたまま、苦笑と慈しみと愛しさが溶け合った光を瞳に宿して、何度も何度も腕を動かす娘と、控え目に手を振り返す千鶴の姿に目を細めた。


2010.2.4


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