春の訪れはまだ遠い。
曇天の空の下、吹き抜ける風は一段と寒さの厳しかった今年の冬の名残が未だ色濃く、葉を落とした木々が風に揺れる様は空調の利いた室内から見ていても寒々しく感ずるものだ。
暦は二月。寒さの最中にあって、しかしどこか街が浮き足立つ季節。
今年もまた、お菓子メーカーの策略とも乙女の聖戦とも呼ばれて久しい二月十四日、聖バレンタインデーがやってくる。


                            
 しあわせの種


「先生、これ……」

そう言って差し出された小さな箱と、緊張した面持ちでこちらを見つめる少女に、差し出された側――土方歳三は僅かばかり箱と少女を見て、ああ、と合点がいくと、それまで目を通していた新聞を無造作に畳んで床に置いた。空いた右手を無言で伸ばすと、まだあどけなさが多分に残る、少女と言い表しても差し支えない顔立ちをした千鶴ははにかむように笑い、そっと土方の手のひらに箱を載せた。
つと視線を落とす。深みのある茶色の無地の箱に、控え目に輝く金色のリボン。有名メーカー名の箔押しや印字が一切ない、シンプルで既製品の匂いがしないその箱の中には、今年も千鶴が手ずから作ったものが収まっているのだろうと容易に想像がつく。
小さく、控え目なそれはなんとも千鶴らしい。

今年は丁度日曜日だったので、なんとも思っていない女や見覚えのない女から呼び止められては足止めを食らう事がないのが幸いだと、ぼんやりと考えたのは同僚との会話で今日に関する話題が出た時だったか。
土方の周りの男連中には手渡されたチョコレートの数をやけに気にする者もいるが、元々甘味を好んで口にしない土方にしてみれば、毎年毎年頼んでもいないのに贈られる甘味の塊を一体どうしろっていうんだと、この日を考えた誰かに言ってやりたくなる。実際しきりに羨ましがる永倉にそう言ったら、なんて贅沢な悩みだと恨みがましい目を向けてきた。

だがどれだけ周囲に贅沢だと言われようが、お返しはいらないと言いながらも期待を込めた目で見てくる女を、その眼差しを、土方は見飽きているせいで、顔が違ってもそういった類の眼差しを向ける女達には、どれだけ顔の造りが整っていようが、特別な情を抱く事など出来なかった。



「あの、先生の分はちゃんと甘さ控え目ですよ?」
無言で受け取った箱を見下ろす土方の横顔に、おずおずと掛けられる声。
短く礼を口にしたきり黙り込んだままの人が、普段甘い物を食べない人だと千鶴は知っている。
千鶴にとってはいささか甘さに欠けるが、土方にとってはこれでも甘いくらいかと、何度か試作品を作りながら辿り着いた結果だ。だから、「多分、恐らく、大丈夫です」と、そう続ければ、顔を上げた土方が呆れたように笑った。
「食わねえなんて言ってないだろう」
開けるぞと言うやいなや、しゅる、と微かに乾いた音を立ててリボンが解かれる。箱の蓋を開けてみると、中には小振りながら形のよいガトーショコラが鎮座していた。

まだ制服を身に纏っていた頃から、この日二月十四日、千鶴は彼女のクラスの古典担当教諭であった土方の元を訪れては小さな箱を置いて去って行った。後日廊下ですれ違った時、美味かったと、一言それだけを口にすれば、ただ嬉しげに笑って。お返しなんてもの、一度も渡さなかったというのに、次の年も、また次の年も、小さな箱は土方の鞄の中にころんと転がった。
繰り返される毎年のやり取り。今以上に緊張した面持ちで箱を差し出す千鶴。そこには打算めいた感情は見当たらず、ただ真っ直ぐに向けられる想いがあった。千鶴は隠していたつもりだろうが、お世辞にもうまく隠していると言えないそれを、土方はあえて見て見ぬふりをしていた。
一過性の、熱だろうと考えて。

その考えが千鶴という「女」を甘くみていた土方の誤りだったと、認めざるを得なくなったのは千鶴の高校生活が後僅かになった頃。


「というか、お前……俺の分はってどういう事だ?」
「?あの、平助君や沖田先輩は甘いものが好きなので、チョコクリームのケーキを……」
「………」
「?」
―――どころかいつの間にか嵌ってしまっている。この、俺が。

「せんせい?」
どこか機嫌悪そうに眉間に皺を寄せる人に、千鶴は首を傾げる。
幼馴染である平助には毎年必ず手作りを渡しているし、高校の先輩だった沖田はこの時期になると今年はこれが食べたいなあと、にこにこ笑顔でリクエストしてくるから、高校一年の頃からずっとチョコレートを渡している。それはもう千鶴にとっては毎年の事で、その事で今更土方が思うところがあるとは露とも思っていない。

分かっていないなと、小さく一つ息を吐いて、薄い紙に包まれているガトーショコラを一口齧る。ほろ苦い、後に舌に残るカカオの香りと甘さ。それは土方の好みを知る千鶴の、土方の好みに合わせた味だ。そういえば、千鶴から手渡される菓子はどれも、甘いけれど顔を顰めるような甘さではなかった。
「美味い」
「それは……頑張りましたから」
先生には美味しいって言ってもらいたいですから。照れながらも、やはり嬉しげに――その笑顔が記憶にあるそれらよりも甘く映るのはきっと、名を変えた二人の関係と、土方の心の内に起因しているのだろう――笑う。
今も昔も変わらぬ、真っ直ぐな想いを瞳に宿して。


「確か……ホワイトデーのお返しは三倍返しなんだよな」
「いえ、別にいいですから」
ぽつりと独白のように呟いた土方の言葉に、千鶴はぶんぶんと手と首を振る。その手をとって、引き寄せる。恋人にそうする事は別段おかしな事ではないのに、千鶴はいつも固まる。そのぎこちなさは徐々に解けてきてはいるが、しっくりと腕の中に納まるようになるにはまだ暫く掛かるだろう。どんとぶつかってくる度胸はあるくせに、と真っ直ぐに伸びた黒髪を指に絡める。
「遠慮するな。高校一年の時から今年の分まで、返さなかった三年間も纏めて一括で返してやるから待っていろ」
持ち上げた髪の下、露わになった耳に囁きを直接吹き込む。と、その耳を押さえた千鶴が勢いよく顔を上げた。
お前顔真っ赤だぞ、当たり前じゃないですか、と言葉が続いて、言葉を失った千鶴の視線があてどなくさ迷う。けれどそれは結局土方の元へと戻って、

「それは、先生はお返しの……お話をされているんですよね?」
「当たり前じゃねえか」
「ぶ、分割できますか」
「却下だ」
小気味よい程はっきりと千鶴の意見を退けた土方の、何度見ても見惚れてしまう顔が、唇に笑みを浮かべたまま近づいてくる。
それを真正面から見つめ返す事など千鶴に出来ようもなく、ああもうだめだときつく瞼を閉じた。



                           一ヶ月後をお楽しみに?



2010.2.12


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