昼間の、うだるような暑さの名残を纏う温い風が火皿の上の炎を揺らす。時折灯心がじりじりと微かな音を立て、その度にぼんやりと闇に浮かぶ明かりが不安定に揺れる。半分開けた障子の先からは虫の鳴き声がか細く響く。常ならば涼を誘う筈のその音が、今はやけに不気味に耳につくのは、恐らく己の心の持ち様のせいだ。
さわさわと木々が梢を鳴らす音すら、誰かの囁き声のよう。ああどうしてこんな事に、と今更後悔しても詮無い事。瞼を閉じる事も耳を塞ぐ事も出来ず、千鶴は只ひたすらにじっと体を硬くした。


                               
と夕涼み


「――でな、幾ら経っても一向に返事がないのを不思議に思った女中が、恐る恐る襖に手をかけて、そろっと中を伺い見ると……そこには、苦悶の表情を張り付かせたまま、魂を喰われて死んでいる男の姿があったんだと……」

抑揚を抑えた声がふつりと途切れると、途端に静寂が辺りを包み込む。
語り終えた原田がふうと一つ息を吐くと、若干一名を除き、灯りを取り囲むように円を作った、その場の誰もが一斉に詰めていた息を吐き出した。集まった面々をぐるりと見渡して、一人の男が小気味よく己の膝を叩く。
「よっしゃ、じゃあお次は誰が話す?」
どこか弾んだ声は二番隊組長永倉新八のもの。促すような眼差しに各々が考える素振りを見せ、しかし誰かが名乗りを上げるより前に口を開いたのは、それまで口を噤んで座していた沖田総司であった。
「新八さん、今夜はもうそろそろお開きにしませんか」
「え〜?もうかよ」
「僕は別にまだやっててもいいんですけどね……ほら」
不満げな声を上げたのは平助で、その声に総司はひょいと肩を竦めると軽く顎をしゃくってみせる。平助のみならず、その場に居合わせた全員の視線が集まった先には、総司の隣に座り、仄かな光源の中で石のように体を硬直させている紅一点、雪村千鶴の姿。一斉に幾対もの瞳に見つめられ、ぎこちなく首を動かす少女の瞳には、隠しきれない怯えの色が揺らめいている。
「これ以上続けると、この子、本物の石にでもなっちゃいそうだけど?」
千鶴の素性や境遇を知る数少ない幹部は根は気のいい者ばかりで、楽しげな総司の揶揄はさておき、少女のそんな様子を一度見てしまえば、無理に怪談話を続けようとしなかった。我慢させちまって悪かったと口々に千鶴の頭を撫ぜ、気に病まぬよう軽口を叩きながらその場を締め括ってくれる。場を提供した原田の部屋を後にすると、挨拶を交わした後、千鶴と総司は廊下の右、平助と新八は左にそれぞれ歩き出した。


暗い廊下を歩きながら、ちらりと隣を歩く総司の横顔を見上げる。
先程までの、夕涼みと称した怪談話に千鶴を誘った張本人は、別段いつもと変わった様子もない。千鶴にとっては身の毛もよだつ話も、彼にしてみればそうではなかったのだろうか。怪談に怯える一番隊組長の姿など想像し難いものではあるのだが。それにしたってそんなに平然とされていると何とも言い難い心地になってしまう。
そんな心の内を読んだように、ふいに総司は猫のような瞳を千鶴へと向けた。
「どうしたの?まだ怖い?」
「い、いえ。もう平気です」
首を傾げて千鶴の顔を覗きこむ総司に、じりと後退しながら首を横に振る。総司の問いかけは他の組長のように気遣わしげな響きではなく、虚勢を張る千鶴の様子をどこか面白がっているようですらある。ふうん、と目を細めながら相槌を打つ総司に条件反射で身構えるが、ふと千鶴の背後に視線をやった総司がひゅ、と息を呑んだのが分かると、ぎくりと別の意味で体を硬くした。
「――千鶴ちゃん、後ろ!」
「――っ!!」
総司の声に、声にならぬ悲鳴を上げて飛び上がると、目の前にある胸にぶつかるようにしがみ付く。異性に自分から抱き付くという大胆な行動に羞恥を覚える余裕などこれっぽちもなく、ただきつく瞼を閉ざし、肩を震わせて、救いを求めるように、しがみ付く手に力を込める。お願いです、お願いですから成仏してください、と心の内で繰り返し唱えていると、暫くして総司の体が小刻みに震えている事に気が付いた。そして、頭の上から聞こえてくる、押し殺したような――笑い声。

からかわれた!!
そう思い至るやいなや、今現在の体勢に意識が向いて、慌てて体を離すと距離を取る。
「沖田さんっ!!」
悔しさと恥ずかしさが綯い交ぜになり、涙目になりながらも、けたけたと声を上げて笑う青年を睨めつける。
からかうなんてひどいです、と珍しく声を荒げるが、ごめんごめんと謝罪の言葉を繰り返す総司のその表情には誠意というものが全く見当たらない。浮かんでいるのは悪戯を成功させた子供のような笑顔。ただ、子供の悪戯が邪気のない可愛いものであるのに対して、総司が千鶴に仕掛けるそれは、いかに千鶴が困るか、動揺するかを計算した性質の悪いものだ。
逃げれば楽しげに追ってくるし、かといって立ち向かってみても敵ったためしがない。
「うん、そうそう。そうやって肩を怒らせてたら幽霊だって近寄ってこないよ」
誰のせいですか、と言葉に出さない反論を眼差しに込めれば、総司は愉快そうに喉を鳴らして歩き出し、自室の障子に手を掛ける。じゃあお休み。にこりと微笑んで総司がさっさと部屋の中に消えてしまうと、千鶴だけがその場にぽつりと残された。
生暖かい風が頬を撫で、夏だというのにぶるりと体を震わせる。
総司と二人きりはどんな事を言われるのか検討がつかなくて弱ってしまう事が多々あるけれど、幽霊はもっと怖い。黒い塊と化した木々の葉が音を立てる。それすらじわりと恐怖心を呼び起こす。
(は、はやくお部屋に戻ろう)
そうしようと、さかさか早足で歩き出す。なるべく周囲を見ないように歩いていたが、しかし床からふと視線を上げた時、灯りの灯る一室が目に入った。


歩みを止めて見つめる先。夏の夜だというのに締め切った障子の向こうで、行灯の灯りに浮かび上がる一つの影。その部屋の主が誰かなど、この屯所にいる者なら知らぬ筈がない。隊士が気軽に足を踏み入れる事が出来るような人物の部屋でもない事もまた。この刻限まで、恐らく文机に向かっているのは、新選組副長土方歳三。
副長として隊を取り纏める土方が、多くの仕事を抱えている事は朧ながら千鶴も分かる。けれど隊士ですらない自分からは窺い知る事もできない部分は、きっと、とても多い。けれど、多くを抱えていても、彼の人はその重さを人に見せない。見せようとしない。だが、鬼副長と呼ばれても、それでも人の子だ。疲労を感じる事もあるだろう。こんな暑い夜は尚更だと思う。
幾許かの間その場に立ち竦んでいた千鶴は、やにわに踵を返すと、自室とは別の方向へ歩き出した。



それから少しして、軽い足音と共に、千鶴は再び土方の自室の傍まで舞い戻った。
変わらず部屋の中は明るく、息を整えると障子の前まで近づくと、手に持った盆を床に置いて背筋を伸ばす。
「副長、夜分に失礼致します。雪村です」
「……入れ」
短い応えに、合わせた両の指先で障子を横に引く。予想通り文机に向かっていた土方は訪れた千鶴を一瞥すると、すぐに視線を元に戻し、手に持った筆の先を硯に浸して、広げた紙にさらさらと筆を走らせる。
「まだ起きてやがったのか。餓鬼はもう寝る刻限だろうが。一体どうした」
手の動きはそのままに、言葉だけを投げて寄越す土方に、千鶴は脇に置いていたままの盆を引き寄せた。
「お傍を通りがかった時に偶然灯りが見えたものですから……。あの、お茶をお持ちしたんですが、よろしければいかがですか?」
盆の上には冷たい茶と漬物が載った小皿。時間が時間である上に、土方は甘味を好んで口にする人ではないから、と胡瓜の漬物を数枚切って茶請けにしてみた。控えめな言葉にも土方は暫く無言で己の手元に意識を向けていたが、微かに息を吐き出すと筆を置き、千鶴の方へと体ごと向き直る。視線を向けられた千鶴は急いで腰を浮かせると、茶と小皿を彼の邪魔にならぬよう文机の上へ載せた。
「通りがかったって、この時間にか」
「はい。あの、幹部の皆さんと……少し前まで怪談話を聞いていたもので……」
今の今まで仕事をしていた人に告げるには躊躇いがある内容を小さな声で口にするが、土方は一瞬呆れたような表情を浮かべはしたものの、特に気分を害した風でもなく茶を一口啜る。そして左手で小皿に載せられた漬物をつまむと、そのまま口に放り込んだ。カリ、コリと小気味よい音を立てて噛むと、つまんだ指先をぺろりと舐め取ってしまう。一応楊枝も添えてみたのだが、どうやら無用の長物だったようだ。
それにしても、と二枚目の漬物に手を伸ばす様子を目で追う。
隊の規律を誰より重んじる人だけれど、ふとした時にこんな風に振舞う事がある。だが何度目にしても無作法だと感じないから千鶴からしてみれば不思議でならない。逆に、そんな仕草でさえ様になって、自然と目がいってしまうのだから。


噛んでいた漬物を嚥下し茶を啜った土方は、そういえばと、少し離れて傍に控える男装の少女を見やった。
「つうか、お前、怪談話聞いても平気なクチなのか」
「いえ、どちらかと言えば苦手なんですけど……」
「だろうな。おおかた、総司辺りに引っ張られて連れてかれたんだろ」
ぴたりと言い当てた土方に、千鶴は驚いたように瞳をまんまるに見開く。非常に分かりやすいこの娘の反応には苦笑が零れるばかりだ。ここまで馬鹿正直だと他人事ながら少々これからが心配にもなってしまう。
一方大きな眼で土方を見つめていた千鶴は、涼やかな瞳が僅か緩むのを目にして、気が付けばふいに胸に湧いた小さな疑問をそのまま唇に乗せていた。
「土方さんは、幽霊を恐ろしいと思われますか?」
「あ?幽霊?」
「す、すいません。変な事を伺いました」
唐突で、しかも子供じみた己の言葉を羞じ、慌てて撤回しようとする。が、それよりも早く、眉間に皺を寄せた土方は溜息混じりに告げた。

「鬼が、幽霊なんざ怖がるわけねぇだろうが」

その言葉の意味を理解するのに、瞬き数回分時間が必要だった。
鬼、というのはきっと土方自身の事。鬼の一字を冠する異名を持つその人は更に言い放つ。
「それにな、俺は忙しいんだよ。幽霊とか亡霊とか、そんな得体の知れねぇもんの恨み言、悠長に聞いてやる時間なんてこれっぽちだって持ち合わせてねぇな」
まさに一刀両断。
この人にかかってしまえば千鶴が震え上がる幽霊もその程度になってしまうのか。もっともそうでなければ、人斬り集団と恐れられる新選組を束ねる事は出来ないのかもしれない。
きっぱりと言い切る瞳は真っ直ぐに千鶴を射抜く。――人の魂を喰らうという幽霊になどではなく、自らを鬼と言い、鬼となる事を恐れぬ人に、その眼差しに、魂を銜えられた心地になる。けれど、何故だかそれを恐ろしいとは思わなかった。

だが。
「でもなぁ」
「?」
それまでの眼差しから一転し、形の良い唇の端をにやりと吊り上げる土方の表情は沖田で見慣れた類のもので、千鶴の中に沖田によってしっかりと埋め込まれた警笛が突如、音を立て始める。足を崩し、胡坐を掻いた膝の上に肘を立てて、常より低い位置から千鶴を見上げた土方は、珍しく、楽しげな笑みを見せて、
「俺らは色んな連中に恨みを買ってるからな。中には恨んで化けて出ようとするのもいるのかもしれねぇ。鬼に取り憑こうなんてふてぇ奴はそういねぇだろうが……」
ちらりと意味ありげに千鶴に視線を投げて寄越す。
それで千鶴は土方の言わんとしているところを悟ったようで、瞬く間に双眸が潤み出す。
――子供を苛める趣味はなかった筈なんだがな。
腹の探り合いに慣れた土方には、千鶴の何とも分かりやすい反応はある意味新鮮だ。
「その傍にいる餓鬼なんざ、格好の」
「も、もう止めてくださいっ!!」
後生ですから!と訴える娘の必死さに、堪え切れなくなった土方はくつくつと意地悪く笑う。
だが、千鶴が本格的に涙目になる前に笑みをおさめると、腕を伸ばしてくしゃくしゃと髪の毛を撫ぜてやった。
「餓鬼がいつまでも起きてるからだ。おら、茶の片付けは明日で構わねぇから、もう部屋戻って寝ちまえ。目瞑ってりゃすぐに夢の中だ」
いささか乱暴に触れられた頭に自分の手を当てて、呆けたように目を瞬かせる千鶴に駄目押しを一つ。
「なんだ?まだ話が聞きてぇのか」
「滅相もありませんっ。では、これで下がらせていただきます!」
からかいが多分に混じった言葉に勢いよく首を振ると、すくと立ち上がる。そのまま足早に障子を開け、最後にぺこりと礼をすると、千鶴の足音はあっという間に遠くなっていった。



静寂が戻った部屋で最後の一枚となった漬物を口に入れる。程よい塩気のそれを味わうと茶ですすぎ、小さな息を吐く。
冷えた茶と漬物の効果か、体の内側から少しばかり熱が逃げていったような気がする。これならば残りの仕事も幾らかはかどりそうだ。

再び筆を持ちながら、暑苦しい夜にささやかな涼を運んできた娘の、ころころとよく変わる表情を思い出し、屯所の鬼は一人微かに笑みを浮かべた。



2009.7.13



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