眠りに落ちる時、そっと目の前にある胸に頬を寄せる。
薄い布越しに聞こえる、一定の間隔で動くいのちの音。
胸いっぱいに愛しい人の香りを吸い込んで、その日一日最後の祈りを。


                             
焼けに願


どこかからか、とりのこえがきこえる。

遠くの方でぼんやりと聞こえてくる可愛らしい囀りはきっと雀達だろう。ふわふわと、未だまどろみの淵に体を預けながら取り留めなく考える。何か夢を見ていたような気もするが、それがどのような夢だったのか、良い夢か悪い夢か、それすらも霧散してしまった。
重い瞼を緩慢に持ち上げ、何度か瞬きを繰り返す。薄暗い視界の先に見えるのは、もうそろそろ見慣れた天井。
新政府軍の目を避けて、この地で二人で暮らし始めたのは数ヶ月前の事だ。表向きは五稜郭で戦死した事になった土方さんとその小姓である私を、この地へ導いてくれたのは大鳥さんで、住まいや身の回りの様々を内密に手を回してくださった。土方さんは最後の最後で借りを作ってしまったと渋い顔をしてぼやいていたが、内心はちゃんと感謝の念を抱いているのだと思う。ただそれを本人に直接伝える機がもうない事に対しての複雑な思いが、あのぼやきには込められている気がした。
そうして始まった、土方さんとの二人だけの生活。
京や江戸のように物が豊かな土地ではないから、暮らしは楽なだけではないけれど、それでも千鶴は幸せだ。
清らな水と清涼な空気。そして激動の末の穏やかな時間が、土方さんの身体に巣食う変若水の効果を次第に薄めてくれているようで、今では千鶴と同じように起きて同じように眠りに就く、そんな当たり前が戻りつつある。あの発作に襲われる事もなくなった。だから、このままずっとずっと、二人でこうして生きていけるのではないかと、淡い夢を見てしまいそうになる。


そろりと無意識に手を伸ばし、その先に彼の人の温もりを求める。だが、指先に触れた布団はひんやりと冷たくて、千鶴は上半身を布団から起こして隣を見た。そこに、昨夜は確かにそこにいた人がいない。もう一度布団に触れても土方さんの体温は一欠けらも残っておらず、その事実が一気に千鶴の覚醒を促すと同時に、冷水を浴びせられたように身体のどこかを急激に冷やしていく。
「……ひじかた、さん?」
呼びかけた声は空しく空気に消える。
「土方さん」
今度は少し大きく。けれどいくら耳を澄ませど応えはない。朝の静寂がひっそりとあるだけ。
もしかしたら水を飲みに行っているのかもしれない。衣擦れの音を微かに立てて立ち上がると、夜着のまま土間を覗いてみる。しかし望む姿はそこにはない。
暖かな日には二人で茶を飲む縁側にも、散歩帰りに摘んだ野の花を一輪挿しに飾った玄関にも、居間にも。
――どこにも。至る処に二人で暮らしている証が、土方さんのいる証があるのに、土方さんだけがどこにもいない。呼ぶ声に返ってくる声は、ない。
急に、息をするのが苦しくなって、千鶴は喘ぐようにその場にしゃがみ込んだ。
心の臓が痛いくらいに鳴っていて、頭の奥が鈍く痛む。きつく握り締めた指が血の気を失い白くなる。が、本人は気付かないが千鶴の顔色こそがまさに蒼白で、俯いたその頬をさらりと黒髪が隠す。
瞼裏にちらつく白。さらさらと指の隙間から零れ落ちる白。
「――っ」
よぎったそれを振り払うようにぶんと強く首を振り、力の抜けた足を叱咤してよろけるように立ち上がる。立ち上がって、千鶴は着の身着のまま家を飛び出した。


朝露が夜着の裾を濡らすが気にならない。足元の草を踏みしめながら、膨れる不安と恐怖を抑えるように右手で胸を押さえながら、何度も立ち止まっては周囲を見渡す。
霧雨のような朝靄が、いつかの光景を呼び起こす。
新選組の一員である事が誇りだったと告げた山南さん。眩しい笑顔で屯所を、千鶴の心も明るくしてくれていた平助くん。あんなに隊を想い、あんなに優しかった人達が、あんなに呆気なくいなくなってしまった瞬間を。泣き縋る身体もなく、跡形もなく灰になった瞬間を。
(ちがう……まだ、ちがう)
こんな時間にあの人が出かける場所が一つある。きっとそこに行っているのだと言い聞かせるように足を動かす。

終わりは必ずやってくる。だが、まだもう少し。いや、もっとずっと。傍にいたい。傍に、いてほしい。
だがそれを誰に、何に祈ればいいかも分からぬまま。乱れた呼吸の間から漏れるのはたった一人の名前。
(土方さん、土方さん!!)
「歳三さんっ!」
茂みを飛び出して、なだらかに続く丘を見上げる。
今にも泣き出しそうな千鶴の声に、金色に似た朝焼けの中に佇む人影はゆっくりと振り返った。眩しげに目を細め、夜着のまま肩を上下させてこちらを見つめる千鶴の姿を見とめると、ぎょっと目を見開く。
「千鶴?お前どうした、んな格好で」
風邪引くだろうが。
怒ったように言うと大股で歩み寄り、千鶴が仕立てた羽織から袖を抜くと、ばさりと千鶴の肩に羽織らせてくれる。求めていた人の温もりが残るそれをきゅっと握り締めて、じんわりと染み入るような熱に張り詰めていた糸が緩んでいく。
良かった、ここに、目の前に確かにいる。
漸く実感すると途端に目頭が焼けるように熱くなった。
千鶴、と土方さんが名を呼ぶ。けれど今顔を上げたらきっと泣いてしまうだろうから、俯いた顔を上げる事はどうしても出来ない。
二人で共にいられる時間は笑っていたい。そう思っていても、私はこんなにも弱くて。名前を呼ばれるだけで胸が震える程、こんなにも土方さんが好きで。ただ好きで。どうしようもなく好きなだけ、いつか訪れる別離が恐ろしくて堪らない。



俯いたまま頑なに顔を上げようとしない千鶴の肩が微かに震えている。
目が合った刹那、千鶴の瞳に宿ったものが何という感情か、分からない程土方は愚鈍ではない。千鶴が目覚めるまでに帰ればと家を出た己の迂闊さと、同時に湧き上がる千鶴への愛しさに一度瞼を閉じて、ぐいと華奢な体を抱き寄せた。
「悪かった……心配させちまったな」
耳元に唇を寄せて囁くように詫びると、ややあって胸に抱きこんだ千鶴がふるふるとかぶりを振る。
「いいえ……いいえ、私こそ、」
きっとこの後は「すいません」と続けるのだろう。それを遮るよう腕に力を込めて、一層強く千鶴を抱く。丁度左胸の辺りにある千鶴の顔。己の内で力強く動くこの鼓動が聞こえるように。そうして背に流したままの緑の黒髪を指で梳いてやる。
宥めるように。慈しむように。
何度も飽きる事無く繰り返して、千鶴の体の強張りが解ける頃、腕の力を僅かばかり緩めた。それでも未だ俯いたままの顔を、無理に上げさせる事はせず、ついと視線を上げると、刻々と高みへ昇りゆく太陽を眺める。月のように欠けぬ、眩いばかりの光を纏って大地を照らしてゆく。静謐の中、朝靄が黄金に輝く様は荘厳ですらある。
「何となく日の出が見たくなってな。ちっとおがんですぐ戻るつもりだった」
「……はい」
「寝起きの目には鬱陶しいくれぇ眩しいが、朝目が覚めて見る朝日はやっぱり良いもんだ」

朝日を浴びて一日を始める。そんな日常を惚れた女と共に過ごせるのは後どれ程か。今は分からぬが、迫り来る影にただ怯えるのではなく、いじらしく笑おうとする女の中に己を沢山残してやりたい。
それでもきっと千鶴は泣くだろう。思えば昔からよく泣く女だった。だがそれでもいつか、雪に負けぬ柳のように前を向いて歩いてゆく。その糧になるように。
「明日は一緒に見に来るか」
小さな約束を一つ口にすると、俯いたきりだった千鶴がやっと顔を上げてこちらを見つめてくる。見つめ返す己の表情が甘いものだと気付いてはいたが、今更隠そうとしても仕方ない。
何度か瞬きを繰り返した千鶴の唇が戦慄いて、きゅっと引き結ばれる。そうして真っ直ぐに顔を上げる千鶴の柔らかな頬を、あたたかな涙が幾筋も伝った。
「はい……ご一緒、させてください」
震える唇が今度こそ言葉を形作る。こくりと頷く、その顔には涙の軌跡が残ったままだが、それでも千鶴は笑った。
「ったく、お前はほんとによく泣くな」
まぁ、お前らしいっちゃあ、お前らしいが、と。呆れたような声も優しさが滲んでいて涙腺を刺激するが、新たな涙の粒は流れる前に土方さんの衣で拭われる。目の際を行き来していた袖がすと離れ、閉じていた目を開ければ、目が合った土方さんが微かに口元を緩めて、そして頭上を仰ぎ見た。
同じように空に目を向ければ、視界いっぱいの青。さあ、と一陣の風が吹いて足元の草を揺らす。
「んじゃあ、そろそろ帰るか」
優しく笑む人に、はい、と頷いて、二人で家路へと歩き出す。広い背を追って歩く千鶴は、その歩みをふと止めて後ろを振り返ると、朝の白い光に目を細めて、そっと瞼を下ろした。


どうか。

願わくば、この弱い私に時間を。
明日の朝まで、ではなく、もっとずっと。
この朝日を、風を、青い空を、二人で見つめていたい。


共に、生きていたいんです。



2009.7.17



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