些細な事をひとつひとつ、集めてふたりの幸せにしましょう。


                              
日和


それは、うららかな光が天から降り注ぐ、とある昼下がりの事だった。

草履を履いて軽やかに表に出た千鶴は、早朝干しておいた洗濯物が青空の下、庭先で気持ちよさそうにはたはたと揺れている様に眩しげに目を細めた。生命が萌え出でるこの季節は季候が穏やかで晴天に恵まれる日も多い。連日の洗濯日和に、千鶴は嬉々として箪笥の中の衣類を引っ張り出しては洗っていた。洗い立ての洗濯物が風にはためく様子は毎日見ていてもその度に気持ちが晴れやかになる。今日も今日とて、青々とした木々の間に渡した縄から二人分の洗濯物を取り込むと、清潔な布から暖かな日溜りの香りが優しく鼻腔を擽る。頬を綻ばせ、すっきりと乾いたそれらを取り落とさぬよう両腕で抱えると、縁側へとさりと置いて、自分は玄関へと足を向けた。

二人分の洗濯物は然程量があるわけではなく、いつもそう経たずに畳み終えてしまう。
小さく息を吐いた千鶴が次に向かったのは土間で、湯を沸かす準備をすると、その間に茶箪笥から茶葉や急須を取り出した。頃合いを見て湯を急須に注ぐと、暫く蒸らして静かに湯飲みに注ぐ。仄かに甘さを含んだ湯気を立てる若々しい緑の色をした茶は、先日買ったばかりのもの。どれが口に合うだろうと思案していた千鶴の隣に立つ人が、一番手近にあった茶葉を手に取り、これでいいと告げたから、特に首を横に振る理由もなくそれを買って帰った。早速淹れてみると、涼しげな瞳を細めて一言美味いと言ってくれた。
酒より茶を好む人だが、どうやら銘柄などには頓着しないようだ。そんな小さな発見もやけに新鮮に感じて、千鶴は知らず笑みを零した。

京にいた頃から毎日のように茶を淹れていた習慣というものは、海を渡り蝦夷地に移っても、そして千鶴の生まれ故郷である地で暮らし始めてからも変わらない。取り巻く環境が変わり、時代が移ろい、季節が巡る中で、茶を淹れる自分と、それを差し出す相手もまた。
それは激動の中にあっては些細な、けれど今となっては千鶴には何より尊い事実であるように思えた。だから今日も、きっと明日も、ゆっくりと心を込めて温かな茶を淹れる。たった一人、心から恋い慕う人の為に。



盆に湯飲みを載せて、向かう先は夫である土方歳三の部屋。
先頃二人きりで慎ましやかな祝言を挙げて、晴れて夫婦という関係になったのだが、それまでの時間――新選組の副長とその小姓という立場が長かったせいか、土方の部屋に近づくにつれて無意識に千鶴の背筋はぴんと伸びる。
「土方さん、お茶をお持ちしました」
部屋の前までやってくると、障子の向こうにいる土方に声をかける。すると、いつものように、応、と返事が返ってくる。筈だったのだが、幾らか待てどもその声は聞こえない。小さく首を傾げ、もう一度名を呼ぶが、やはり反応はない。首を傾ける角度が更に増す。どうしよう、と湯飲みに視線を落とし、考える事暫し。「入りますね?」と言い置いてから障子を横に引いて、目に入った光景に千鶴は元より大きな眼を更に大きくして瞬きを繰り返した。

物の少ない、すっきり片付いた部屋の中。
背の低い文机を肘置きにして土方は目を瞑っていた。その手元には開いたままの書があって、読書をする内に眠りに誘われたのだろうと推測できた。珍しいものを見た、と、先ず生じたのは純粋な驚きで、次いでじわりじわりと微笑ましさが湧いてくる。こんなにもお昼寝にはぴったりの陽気なのだから、うたた寝しても仕方ない。
寝顔は穏やかで、一杯の茶の為に起こしてしまうのは憚られる。けれどすぐに部屋を後にするのもなんだか勿体無く思え、逡巡の末そっと膝を浮かせると、足音を立てぬように一歩二歩と土方へ近づいた。
小袖の裾を押さえて傍に腰を下ろすと、瞼を下ろしたそのかんばせを見つめる。
随分と深い眠りの中にいるようで、千鶴の視線にも目を開ける事はない。
彼は――土方歳三という人は気配に敏感だ。それは土方だけでなく、千鶴が懇意にしていた新選組の幹部は皆そうだった。命のやりとりを日常としていた彼らはきっと、守る為に、生きる為に、敏くならざるをえなかったのだろう。人の気配に、殺気に、気付かなければ、その先に待つものは――死、であったから。
そんな人が無防備と言ってもいい寝顔を晒している。
まじまじと、こんなに近距離で、穏やかな時の流れの中で見つめていられる。

すと通った鼻梁に形の良い薄い唇。
美しい顔立ちは、けれど決して女性的な美ではない。町娘から廓の女までがさざめく、男の人の色香を漂わせている。千鶴は土方の容姿にこそ心を奪われた訳ではないけれど、それでもやっぱり昔からその姿に目を惹かれてしまっていた。



その時、ふいに微か身じろいだ土方の、俯いた顔をさらりと流れた髪が隠した。
目が覚めるのではと一瞬跳ねた鼓動を鎮め、そろりと腕を伸ばしてそれを元に戻すと、露わになった睫毛と、極々小さく寝息を零す唇に視線が吸い寄せられた。
髪から離れた指を、呼気を指の先に感ずる程近く、触れるか触れないかの距離で、唇の輪郭を辿るように動かす。初めて知った男の人の唇は存外柔らかくて、熱く――深く、いつも千鶴を翻弄する。
夫婦となってからの触れ合いを一気に思い出して、千鶴は体温が急上昇するのを自覚した。頬が熱い。秘め事を思い出して、一人頬を赤らめる自分ははしたないのだろうか。
伸ばした手から土方に心の内が伝わってしまいやしないかと、千鶴は己の手を引っ込めようとした。

が、それを行動に起こす前に、突如手首を掴まれてぎょっと目を見開く。それまで目を閉じていた土方が、何の前触れもなく目を開けて、どこか、楽しげな眼差しでひたと千鶴を見た。
「――っ!!ひ」
ひじかたさん、と呼ぼうとした声は喉の奥に逆戻りする。
ぐいと後頭部を掴まれて、引き寄せられて。あ、と思った時にはもう唇が重なっていた。

瞠目する千鶴の視界いっぱいに、目を細めた土方の眼差しが注がれる。それを正面から受け止める事が出来る程、千鶴は未だ開花してはおらず、きつく目を瞑ると、くぐもった笑い声が唇から直に伝わってきた。
どれくらいの時間甘く唇を合わせていたのだろうか。上がった息を整えながら、千鶴とは対照的に息一つ乱してはいない、意地悪く狸寝入りを決め込んでいた夫を睨みつける。
「寝てらしたんじゃなかったんですか……」
「ああ、確かに寝ていたんだが、あんなに近くでお前に眺められて目が覚めねぇ筈がねぇだろう」
なんて事無く告げる言葉に、千鶴は顔を赤らめて己の不躾な行為を恥じるが、その初心な反応を好む土方は、口の端に小さな笑みを乗せた。
「随分長い事、人の顔見てたようだが、今更俺の顔なんざ珍しくもなんともないだろうが」
言いながら、ずいと千鶴に顔を近づける。
千鶴は土方が近づいた分、真っ赤な顔のまま思い切り後ろに仰け反って、迫る顔と眼差しから逃れようとする。だが体を支える為に畳についた両の手に、土方の大きな手が乗せられて上から押さえつけられてしまう。正座したまま仰け反った状態で、手を拘束されてしまえば、もうそれ以上身を引く事は叶わない。
どう言葉を返したらいいのか。あなたの唇を見つめて赤くなってました、なんて本当のところを言えるわけがない。唇を噛んで視線を彷徨わせる千鶴の名を土方が呼ぶ。
――微かに震える肩と、そろりと控えめに目を合わせる千鶴の潤んだ瞳に、年甲斐もなく胸が鳴った。

「千鶴」
「そ、そんな声を出さないでくださいっ」

耳朶に唇を寄せて名を呼ばれると、ぞわぞわと首筋から背を得体の知れない刺激が走る。濡れた声はひどく艶っぽくて困る。それだけで腕の力がへにゃりと抜けてしまいそうになってしまう。
「そんな声たぁどんなんだ?俺は昔っからこの声だ」
からかうような言葉も土方に囁かれれば途端に色を帯びる。千鶴がこの声に弱いと分かっていながら使うのだから性質が悪い。
意地悪な人、と眼差しで訴えるも効果はなく、
「お前が誘うような真似をするからだ」
土方は右手の親指の腹で色付いた千鶴の唇を撫でる。
そんな真似した記憶がありません。誘うってどうやればいいんですか。というか土方さんいつから起きていたんですか。言いたい事が沢山あって、その全てがこんがらがって喉元でつっかえているようだ。

「わ、たし、お茶を淹れてきたんです」
「ん?」
漸く出てきた言葉は口にした本人でも唐突な感もしたが、目の前の人が反応してくれたから、これ幸いと急いで言葉を重ねる。
「土方さんに飲んでいただければ、と思って。ですから、」
盆の上に載せられたまま、すっかり存在を忘れて去られていた湯飲みを見やる。

夫婦になったとはいえ、その期間は未だ短く、千鶴にとって土方は夫というより恋い慕う男性という認識が強い。そんな相手にこんな風に接近されて平常でいられる筈があろうか。兎に角一度離れてもらって、その間に深呼吸の一つでもしなければ、暴れ続ける心の臓がおかしくなってしまいそうだ。
「――ああ、そんじゃよばれるか」
だから、千鶴と湯飲みを見比べて、すと体を離した土方にほう、と胸を撫で下ろした。
胸に手を当てて息を吸って吐く千鶴の傍で、土方は湯飲みを手に持つと、そのまま一気に飲み干してしまった。音を立てて盆の上に空になった湯飲みを置いて、改めて千鶴に向き直った土方に、どうにか落ち着けようとしていた千鶴の鼓動が再び高鳴り出す。
「美味かった」
「それは、良かったです。でも、あの……それで、こちらに向かってこられるのは何故でしょう?」
「あ?続きをする為に決まってるじゃねぇか」
そう言って当たり前とばかりにじりじりと間合いを詰められる。
あっという間に、完全に先程と同じ構図が完成する。
うー、と顔を朱に染めて唸る妻の姿に土方は苦笑して、腕の中に囲った千鶴の耳元に低く囁いた。
「お前は俺とこうするのがそんなに嫌なのか」
とどめとばかりに告げられた言葉に退路を塞がれてしまえば千鶴に逃げ場などない。
「――嫌じゃあないです……」
そう、本当は嫌じゃない。色恋沙汰の経験のない千鶴には土方の色香は強くて、中てられたように頭の芯が痺れたようになって、どうすればいいのか分からなくなるけれど、それでも、慕う相手に求められて嬉しくならない筈ない。

やっとの思いで心の内を晒した千鶴に土方は笑った。
なんとまだるっこしい遣り取りなのだろう。だがそれを悪くないと思っている今の己がいて、自分の事ながら可笑しくてならない。惚れた女が相手だとこうなるのかと、この年齢になって知るとは思わなかった。

「じゃあ逃げようとすんじゃねぇよ」

ひどくあまやかに響く言葉に千鶴が口を開くより先に、甘く唇を食まれる。
次第に深くなるそれに意識に靄がかかる。
必死についていこうとする千鶴の体はいつの間にか土方の下にあって、首筋を這う指の感触にぴくりと肩を竦めたその視界の端に、空になった湯飲みが入り込んだ。



(あとで、今度は温かなお茶を淹れにいこう)

意識が逸れたのはその一瞬だけで、後はちらりと脇見をする余裕も千鶴には与えられなかった。



果たして、土方が熱い茶を啜るのはいつの事になったのか。それは夫婦二人だけの知るところである。


2009.7.26



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