鬼の撹乱とどこぞで揶揄する声が聞こえてくるようだ。


何の感慨も沸かぬ見慣れた天井を見上げながらそう思う。
熱で床に伏すなど一体いつ以降だろう。記憶が確かならば、それこそ子供の頃、未だ両親が健在だった頃に一度ばかり流行り風邪に罹った以来ではないか。子供の頃の記憶など往々にして不鮮明で不確かなものだが、それでも、あの時の症状に比べれば、今この身が感じる倦怠感はましであるし、寒気も吐き気も襲ってこない。
多摩の道場に身を寄せていた頃から、そう簡単に風邪をもらうような柔な鍛え方をしてきたわけではない。特に京に上ってからこれまでは、多少の不調を感じたところで悠長に寝ている暇などはなく、それを理由にして他を疎かにするような無様な真似をしようとは一片たりとも思わなかった。優先すべきは山のように転がっていたし、実際それらに意識を向けていれば己の体の内側の事など些細な事と気にならなくなっていた。
苦しさでいえば、羅刹として過ごした間に何度も味わってきた、血への衝動、渇望を抑える方が余程だった。
だのに、どうして今こうして、面白みの欠片もない自室の天井と面をつきあわせているのか。

首を傾けて、己を布団の中に押し込めた女を見やる。
布団の傍らに座した千鶴は水を張った盥に手ぬぐいを浸すと、きゅ、と絞る。耳の傍でぱたぱたと不規則に聞こえてくる水音が微かな余韻を残して止んだかと思えば、腰を上げた千鶴の指が土方の前髪をそっと掻き分けて、井戸水で程よく冷えた手ぬぐいがそこに載せられた。
常ならばあたたかく感じる細指がひんやりとしていたのは土方の体が熱を熾しているせいか。
土方自身が己の変化に気付くより先にそれに気付いた千鶴は、大丈夫だと言う土方の言葉をきっぱりと退けると、てきぱきと床の支度を整えて、あれよと言う間にそこに寝かされてしまった。
よく見てやがると、昔ならば溜息の一つも吐いて、余計な気を回すなと一蹴していた。その頃の土方には、大袈裟だと苦笑しながらも渋々千鶴に従う、今の己の姿など想像もつかないだろう。
そう思えば、過去と現在の落差に何だか面映いものが込み上げてくる。

「おい、千鶴。俺は別に重病人て訳じゃないんだからな。なにも付きっ切りでいる必要はないだろ」
「歳三さんの平気だ、大丈夫だの類はあてになりません。私が勝手に動いているだけですから、気になさらずに目を瞑っていてくださって良いですよ」
千鶴という女は普段は慎ましやかであるが、時に土方が驚く程強情で、こうと決めたら引かぬ面も併せ持つ。
「ったく……お前は昔っから俺の言う事を聞きやしないんだからな」
天井を見上げて小さくごちれば、ふわりと空気が揺れる。
「歳三さんの仰る事を全て素直に聞いていては、お傍に置いていただけませんから」

笑顔で寄越した千鶴の言葉に、言うようになったと口元を歪める。

出会った時には怯えた眼差しで土方を見上げていた娘はいつしか、新選組という血生臭い囲いの中にあって、周囲を癒す笑顔を見せるようになり、そして己の意思で新選組と共に歩む道を望み、選んだ。
辛苦を共にした人間が一人二人といなくなり、ついには組長である近藤までもが処刑された後も、頑なに土方の傍に付き従った娘。その中に潜む思いを悟り、その上で、ついてくるなと――幸せになれと告げて背を向けた薄情な男の後を、それでもなお追ってきた。
雪に覆われた最果ての地で再会した時、子供だ子供だと思っていた、否、思い込もうとしてた娘は、実に鮮やかな啖呵と共に、土方が築いた壁を真正面から打ち破った。それはもう子供ではなく、いっぱしの「女」で。
白い紙切れが視界の中で舞う、その向こうで、ただ傍に居たいのだと告げた千鶴。真っ直ぐな心と眼差しで、泣きながらも、支えたいと訴える女に腕を伸ばした時に、自分は負けてしまったのだ。
鬼の撹乱とはまさにこの事だろう。
この己が、たった一人の女――それも一回り以上年下の女に、だ――心をかき回され、乱されている。


一つ、息を吐いて、布団近くに控える千鶴に視線をやる。
「俺の傍にいて、お前に移ったらどうするんだ」
「私はそうそう風邪をひきません。それに歳三さんの看病は、つ……私の役目ですから」
あくまで看病する姿勢を崩さぬ千鶴が、ぎこちなく視線を逸らしながらそう告げて、土方は喉の奥で小さく笑う。
己を妻と称するだけで赤くなる女は、くくと笑う声に控えめに眉を寄せて恥ずかしげに唇を噛む。
「か、風邪は万病の元なんですよ?甘くみていると怖いんです。ひき始めはしっかりと休んでお薬を飲んで、滋養のあるものを食べないと、治るものも治りません。ですから、」
「あーあー、分かった分かった。そういやお前は医者の娘だったな」
くどくど続く言葉を遮ると、瞬間、千鶴がはっと瞠目したのが分かったが、熱のせいとばかり気付かぬふりをした。揺らめく瞳に呼応するように、頷く事を躊躇う気配がすぐ傍で揺れる。

「――なんだ、間違った事言っちゃいないだろう」
さっきの口振りなんざ、松本先生にもよく似ていたしな。
そう口にすると、漸く千鶴の気配がゆるりと緩む。
僅かばかりの間の後、「そうですか?」と首を傾げる妻に、おうと短く頷き応える。


「……歳三さん」
「なんだ」
「ありがとう、ございます……」
そう言って頭を下げ、再び顔を上げた千鶴が浮かべたのは微笑。それははっとする程美しく見えて、不覚にも一瞬言葉を奪われた。

「馬鹿か、お前は。何もされてないのに礼なんて言うな」

ぶっきらぼうな言葉に、ふふ、と軽やかに笑う声。
土方の額から手ぬぐいを取り上げた千鶴は、熱を吸い温くなったそれを水に浸して絞る。
そっと元の位置に手ぬぐいを戻しながら、
「それでも……ありがとうございます」
もう一度繰り返す千鶴に、礼など言うなというのにと苦笑しながら、土方はひんやりとした手ぬぐいの感触に目を細めた。



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