傷口ごと柔らかな熱に包まれる。
とっくに塞がった筈の傷口からじわりと体内に広がりゆくのは、全身をひどく甘く疼かせる毒のようで。


                             



夕餉の支度はいつも日が傾く頃には始めている。
この日、市で買い込んだ食材を前にして、千鶴は自身に気合を入れるように白い襷を巻いた。

今日の夕餉はひじきの白和えときんぴらごぼう。後は味噌汁とご飯。
市でふと目に留まった根野菜を手に取って思いついた料理は、奇しくも、この家に落ち着いて初めて千鶴が土方に振舞ったものと同じ。
父一人子一人の生活が長かったお蔭で、料理の腕前はそれなりだと、江戸にいた頃は思っていたが、新選組と共にあった時間の中で、小姓として茶を入れる事は日常として千鶴の傍にあったが、女として土間に立つ事は終ぞなかった。
長い生活で馴染んだ京の料理の味付けも上品で良いが、自分で作るとなると自然に食べ慣れた江戸の味付けになってしまう。それが土方の口に合うだろうかと内心恐々としていた千鶴の前で、箸を口に運んだ土方は僅かに目を細めて、これくらいの味付けが丁度いいあんばいだと言って千鶴を喜ばせた。


米を研ぎ、ごぼうの泥を水で洗い落とし、さてと包丁を握ったところで、背後でかたんと小さな物音と気配がして、千鶴は誘われるよう緩やかに後ろを振り返った。この家に住まうのは千鶴以外に一人しかいないから、そこに誰がいるかなど考えるまでもない。
「土方さん、どうされました?」
「ちと喉が渇いてな。……お、今晩はきんぴらか」
尋ねる千鶴の声に、両の腕を袂で組んだ土方は、草履を突っかけて土間に降り立つ。千鶴の手元を見やりぴたりと言い当てた人に「はい」と頷き笑って、千鶴は傍までやってくる土方の姿を目で追う。
「急いで準備しますから、もう少し待っていてくださいますか」
「ああ、かまわねぇよ」
気にするなと淡く笑って、土方は水瓶の蓋を開けると柄杓で水を掬う。そのまま柄杓を口につけてくいと煽る、土方の喉が何度か上下し、ふ、と息を吐いて口を離すまでを、千鶴は近くで見ながら慣性で握った包丁を動かす。
何年も傍にあって、けれど今でもこうして目を奪われるのはどうしてだろう。何それ、本気で言ってるの?とどこかから呆れ混じりの懐かしい声が聞こえてきそうな、答えの知れた問いを千鶴は真剣に自らに投げかける。

だが、そんな事を考えつつ、あまつさえ余所見をしながら手を動かしていたのが良くなかった。

「――っ」
指先にぴりと微かな痛み。

見れば、左手の人差し指にぷくりと小さな血の玉が出来ている。
「なんだ、切っちまったのか?」
思わず上げてしまった声に、土方は柄杓から口を離して、濡れた口元を手の甲でぐいと拭うと千鶴を見やる。
「あ、はい。でも大丈夫です。これくらいなら……」
作業の手を止めて傷口を見つめていると、元々浅い事もあり、見る間に傷は塞がってゆく。見慣れた現象に、けれど千鶴に染み付いた習慣は、土方の注ぐ眼差しから左手を着物の袖で隠そうとする。自分の体の特異性が、他人の目から見れば奇異に映る事は誰より千鶴自身が承知している。人は、如何なる傷であれ、それが瞬く間に治りはしないのだから。

千鶴がその枠組みから外れているのは、その身が人にあらざるもの、すなわち「鬼」である故。その内に流れる血、そして千鶴が希少だという女鬼であった事が原因となり、新選組は何度も千鶴を狙う鬼達の襲撃に遭った。その中で土方を始め、幹部らには千鶴が鬼であると知れるのだが、事実を知ってなお、皆の、土方の、千鶴に対する態度は変わらなかった。
時を経て夫となった人を信頼していない訳ではなく、これはもう千鶴にとっては条件反射のようなもの。

「ったく、お前は。女が傷なんかこさえるんじゃねえ」
じゃり、と足元の砂を踏み締めて千鶴との距離を縮める土方は、呆れたような溜息を零して、袂で隠した千鶴の手を掴むと、すっかり塞がった傷口に目をやる。痕は一切残っておらず、皮膚に付いた血さえなければ、どこを切ったかも分からない。
だというのに土方は一向に手を放してくれない。
あまりにじっと凝視されるものだから、居た堪れないという意思表示も込めて控えめに腕を引こうとするのだが、土方の手は千鶴の手首を掴まえたまま。

土方の目に映る千鶴の手はお世辞にも美しいとはいえないものだろう。
擦り傷や切り傷はすぐに癒えるが、日々の水仕事で荒れた手には、小太刀を握っていた頃にできた肉刺の痕も幾つかある。きっと、目の前の人が数多目にしてきた女人の手のたおやかさ、美しさとは比べる事すら恥ずかしい程。否、手だけではない。きっと、髪や容姿も。
土方歳三という人は、花のように芳しく咲く島原の、手練手管を知り尽くした女も魅了する人だから。
過去の女性と千鶴を比べるような人だとは思わない。思わないが、色々と考えてしまうのが女心。

「土方さん?あの、傷はもう塞がってしまってますから、大丈夫で――!?」
大丈夫です、と言おうとした言葉の最後は声にならぬ悲鳴となる。
信じられない光景に、千鶴は思い切り目を見開いて――千鶴の指を口に含んだ土方を見つめる。


薄い皮膚を熱い何かが撫でる。
それが土方の舌だと認識した途端、目が眩みそうになった。
指にこびり付いた血を丹念に舐められる。それは過去、発作を抑える為に首筋の傷を舐められた時と同じような筈なのに、全く違う。目を閉じ、苦しみが一刻も早く去るようにと願ったあの時間とはまるで違う。
指先に心の臓が移ってしまったよう。
ぴちゃりと響く水音が耳朶をかすめて、体がふるりと震える。――どうにかなってしまいそうだ。
目を背けたいのに、どうしてか固定されたように目が離せない。悪い病に罹ったように、頭の芯が痺れて、それは千鶴の体の隅々まで侵して蕩かしてゆく。



永遠にも似た時間は、土方が千鶴の指を銜えていた唇を離して終わった。
ようやっと解放された千鶴は、ふらりと覚束なくなった足を何とか叱咤して、その場に踏ん張って耐える。
「い、い、いきなり、何するんですか!?」
「あ?傷は唾つけときゃ治るってよく言うだろうが」
舌をもつれさせながらもやっとの思いで発した言葉にも、土方はしれしれと返す。その瞳の奥に楽しげな光を見つけてしまった千鶴は、どうしようもなく上昇する体温を制御できずに、ただ絶句するしかない。
悪餓鬼のようで、それでいてどこか艶のある笑みを浮かべる人に、この場合、怒ればいいのか、どうしたらいいのか。ただ、そんな顔をしていても綺麗だと思わせるのだから本当にずるい、と心から思う。

「そんなに嫌ならもう傷なんて作るんじゃねえ。少なくとも、包丁持ってる時くらいは人の顔見てほけっとすんな」
「そ!んな、嫌ではなくてですね……。でも、いえ、そうじゃなくて、見惚れていたわけではなく!」
もう自分でも何を言っているのか分からない。兎に角、誤解される事は本意ではないと、弁解と否定と肯定が入り混じった言葉が口をついて溢れる。
嬉しい事を言ってくれる、と、つい噴出した土方を、そこでどうして笑うんですか、と非難する千鶴の声が耳に心地良く響いた。

「ああ、もう分かった分かった。それじゃあ俺は夕餉まで部屋にいるから出来たら呼んでくれ」

口元に笑みを刷いたままそれだけ言うと、土方は千鶴に背を向けて土間を後にする。
一人残った千鶴はのろりと流し台に向き直り、中途半端な状態で放っていたごぼうを手に取ろうとして、伸ばしかけた手を一度引っ込めた。

このままではまた自分の指を切ってしまう。


ぺちぺちと頬を数度叩いて自分を正気づけると、指先に未だ残る感触を極力意識せぬよう、包丁を握り直した。



2009.8.9


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