夏の終わりに蝉を拾った。
ふと、あの夏の日を思い出した。


                             



じわじわと、雨のように鳴き声が降ってくる。
手を止めて頭上を仰ぎ見れば、濃緑とも黒色とも見える木の葉の隙間から強烈な陽射しが目に入り、その眩しさに千鶴は翳した手の下で目を細めた。


大地をしとどに潤した雨の季節が過ぎ去り、京は今、蒸しかえるような暑さの中にある。曇天の下では、からりと晴れ渡る夏の訪れを待ったものだが、こうして連日、湿気を帯びた熱気に晒されていると、早くも秋の風を待ち望んでしまうのは、手前勝手な望みだと分かっていても致し方のない事だろう。

鮮やかに空を染める青。
力強く湧き立つ雲の白さとの対比は清々しくも目に沁みる。
その下で、張りのある硬い葉を茂らせた木は、ただ真っ直ぐに天を見上げているが、人の身は鮮烈な光の前に眩むばかりだ。足元の盥の水が風を受けてゆらゆらと揺れると、その度に陽射しが反射して、それがまた目に眩しい。
京の暮らしにも随分慣れてきたとはいえ、未だにこの夏の季候は馴染み難い。額にうっすら浮かんだ汗を手の甲で拭う。今年の夏はことさら厳しいとぼやいていた隊士の声を思い出し、温い風に混じって耳に届く、乾いた竹刀の音を聞いていると、次第にその音が剣戟師範に扱かれる平隊士らの心中を代弁しているようにも聞こえてくる。

新選組に世話になっている身ではあるが隊士ではない千鶴が、彼らと共に稽古に励む事はない。せめて、と願い出て請け負うのは屯所内の掃除であったり、幹部に頼まれる細々した雑用であったり、今しているように洗濯であったりする。
稽古着を洗い終えた千鶴は用済みになった盥の水をぱしゃりと地面に打つと、絞った稽古着の山を入れた盥を両手でしっかと抱えると立ち上がった。それだけで、しゃがみ込んでいた時より風の流れを感じる事が出来て、剥き出しの腕やうなじに当たる微かな風に息を吐いて目を細める。

ささやかな涼は、けれど程なくして肌を刺す熱へと変わる。
水を吸い込み変色した地面も、舐めるように這う熱風により、瞬く間に色を元に戻す。これ程ならば、この大量の洗濯物も数刻で乾いてしまうだろう。歓迎すべき事であるが、千鶴がそれを素直に喜べないのは、この気温の中、今現在も汗を流している隊士達を思うからだ。

子供をあしらうように隊士を次々と床に沈めていた、一番組組長、沖田総司の浮かべていたにこやかな笑みを思い出す。

庭の掃き掃除を終え、箒を手にしたまま道場の傍を通り過ぎようとしていた千鶴を呼び止め、ちょっとおいで、と手招きした人。反射的に若干身を引いた千鶴だが、笑顔の中に有無を言わせぬ何かを感じ取ると、これまでの経験から得た教訓をふまえて、手招かれるまま沖田の元へ歩を進めるしか選択肢は残されていなかった。
傍までやってきた千鶴の前で、前合わせに手をかけた沖田は汗を掻いて重くなった胴着をおもむろに脱いで、ぎょっとする千鶴に構わず、それを千鶴に手渡してこう告げた。
『汗掻いてすごく気持ち悪いんだよね。悪いんだけど、それ洗っといてくれないかな』
明後日の方向を見やり、ぎくしゃくと頷く千鶴に沖田はからりと笑って、それじゃあついでに、と道場内の隊士の稽古着もまとめて持ってきた。
何人分もの汗が入り混じった布の山からは何とも言い難い、鼻を突く匂いがしたが、そんな事は二の次と、受け取ったそれらと箒を抱えて、上半身を晒したままの沖田から視線を逸らし、足早にその場を立ち去った。
――背後で沖田の笑い声が聞こえたのは、きっと聞き間違いではない筈だ。


はあ、と溜め息を零し、物干しに向かおうとする背に、雪村君、と声が掛かったのは、千鶴が一歩を踏み出すのとほぼ同時だった。

「あ、井上さん。お帰りなさいませ。暑い中、見廻りお疲れ様でした」
「雪村君もごくろうだねぇ」

高く結わいた黒髪を靡かせて振り返る千鶴に柔和な笑みを浮かべ、「それにしても本当に暑い」と晴れ渡る空を見上げるその人は、新選組六番組組長である井上源三郎。
腰の手拭いで額から頬を伝い流れる汗を拭うと、梢を揺らした一陣の風が二人の間を通り過ぎる。決して心地良いとは言えぬそれにも井上はすと目を細めて肩の力を抜く。
そうして、千鶴の抱える盥を見下ろしたかと思えば、あ、と声を上げるより早く千鶴の腕から盥を取り上げ、物干しのある方へと歩き出した。

それに慌てたのは千鶴だ。
「あの、井上さん。これくらいは私、持てますから!」
一つの隊をまとめる井上に、否、年長者の男性にそんな事を、と急いで盥に手を伸ばすが、井上は浮かべた笑みはそのままに、千鶴の言葉に首を振る。
「いいんだよ。私もこちらに用があるからね。これはどの組の隊士のものなんだい?」
「え?えっと、沖田さんの一番組の皆さんのものです」
「そうかい。この暑さの中での稽古は大変だが、だからこそ心身ともに鍛錬になる。沖田君は新選組の中でも随一の腕前だから、いい稽古になるなぁ」
険のない声でそう言われると、千鶴も曖昧に頷いてしまう。そうしてはたと、遣り取りの間にすっかり井上の腕に盥が納まってしまった事に気付いた。


井上源三郎という人はそれほど口数が多いわけではなく、だが、広い視野で周囲へ細やかな配慮をする人、というのが千鶴の認識だ。千鶴の目から見ても隊士からの人望は厚く、それは新選組を束ねる近藤や土方も例外ではないように見受けられる。局長、副長、そして組長という立場の違いはあれど、三人の間には長い時を共に過ごした者同士の気安さと、培われた信頼――男でも武士でもない千鶴には知りえぬ深い場所で、他にも三人を繋ぐものはあるだろう――が根付いているように感じられる。

「井上さん、ありがとうございます」
「うん?ああ、なんの、これ位はお安い御用だよ」

皺を浮かべて笑う、そのさり気ない優しさに、千鶴もごく自然に笑顔を返していた。



短い距離を並んで歩き、辿り着いた物干し竿の傍で井上は盥を地面に置いてくれた。
頭を下げ、感謝を告げる千鶴の声に被さるように、近くの木ではけたたましく蝉が鳴き声を上げ続けている。
「おお、元気がいいな」
高らかに、何重にもなって声を上げる蝉達に井上は笑う。同じようにして木を見上げていた千鶴は、その言葉に目を瞬かせると隣に立つ井上の顔を見つめた。
「井上さんは蝉の声がお好きですか?」
「いや、そうだね……。好き、というのとは少し違うんだよ。ただ、共感はするんだ」
「共感、ですか?」
言わんとしている事を掴もうとして首を捻る千鶴に井上は小さく笑い、「蝉は夏の生き物だろう?」と、再び視線を上に向けながら話し出す。
はい、と頷いて、続くであろう井上の言葉に耳を傾ける千鶴に、独白のような静かな声が降ってくる。


蝉は夏に鳴く。必ず夏になると鳴き出す。蛍のように夏の訪れを知らせて愛でられる事はなく、土の中から這い出た後は、人が顔を顰める程大きな声で鳴く。それだけが己の天命のように。脇目も振らずにひたすら声を上げる姿は、なんだかね。
胸に迫るものがあるんだよ――……







夏の終わりに家の傍で蝉を拾った。
力尽き、もう鳴き声を上げる事のない小さな体を見下ろして、ふと、あの京の夏の日を思い出した。


それは遠い、遠い日の記憶。
それでも、あの言葉が、笑顔が、あの夏の日の残光と共に今も千鶴の心に焼き付いている。

自分の働きを称えられたい訳ではないと。ただ、あの人達が目指す先へ共に歩いていきたいんだ、と。そう言って口元を優しく弛ませた人を思い出す。

優しく、強く、最後の一時まで武士であろうとした、父のような人。
目の前で失った温かな手の温もり。
もう以前のように泣きはせぬが、それでも思い返せば何度も、胸を掻き毟りたくなるような息苦しさと痛みが甦る。それでも忘れない。これからも忘れる事はないだろう。この声がもう届かないのならば、痛みも、出会えた喜びも、交わした言葉も、抱えて生きていく事しか、千鶴には出来ない。
最後に、逃げろ、と千鶴に向けて放ったあの人の言葉はきっと、生きろ、と同じ。
ならば精一杯生きなければ、と今は思う。



木の下にしゃがんで、硬い土を手で掘って小さな穴を開けると、そっと亡骸を横たえる。その上に土を盛り、瞼を下ろすと、何処かからか、ひぐらしの声が聞こえてきた。


千鶴の生まれ故郷であるこの地に、早くも漂い始める秋の気配。



だが、閉ざした瞼裏の奥、千鶴は、今は遠い京の地で感じた鮮烈な日差しと、けたたましくも力強く生きた蝉の声を思い出していた。



2009.8.16


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