幼い頃、それはひどく曖昧な形をしていて、けれど漠然と、優しく穏やかで幸福なものだと思っていた。


                            
、ひとしずく


粥と椀を盆に載せ、所々黒ずんだ板張りの床を、なるべく足音を立てぬよう息を詰めて歩く。
障子の向こうから灯りが廊下に漏れている部屋もぽつりぽつりあるが、総じてひっそりと静まった一階を通り、二階へ続く階段を昇る途中で、千鶴はふと足を止め、視線を動かして夜空に浮かぶ月を見上げた。

全てのものを包み隠そうとする闇を柔らかく照らす月の光は清かに、そしてささやかに千鶴の手元や足元を明るくしてくれている。満月までは後数日といったところであろう朧月は、端がほんの少し欠けていた。目を細めて、一人、言葉もなく月光を浴びる。
土方が倒れてから、無明の闇の中に立たされている心地を味わい続けていた千鶴にとって、今宵の月の明りは心の深くにじんわりと染み入るようだった。



今、千鶴は日光の宿屋に身を置き、宇都宮で酷い傷を負った土方が快方に向かうのを待ち続ける日々を送っている。
戦う為、貫く為、己の中にある譲れないものの為に変若水を煽り、その身を羅刹という存在に変えた彼には生半可な攻撃は意味を成さない。心の臓を貫かれない限り、羅刹の力はその驚異的な回復力でもって傷を塞いでしまう。だがしかし、宇都宮で風間千景が土方に与えた刀傷は、羅刹の身をも苦しめ、もどかしいくらい治りが遅い。

童子切安綱――そう名付けられた鬼殺しの一振りは、今現在も生々しい傷を土方の体に刻んでいる。何度も生死の境を彷徨い、漸く目を覚ましてからも傷からの熱に浮かされて、土方は起きているのか眠っているのか分からない日が続いた。千鶴に出来る事といえば汗を拭い、体を拭き、傷口が膿んでしまわぬよう清潔にして、包帯を巻く事を繰り返す。出来る事はそれくらいしかなかった。
容態は不安定で、土方の内の力に任せるしかないとだと知りながらも、それでも自分が傍を離れている間に何かあったらと思うと、足元が揺らぐような、否、足元が崩れ落ちるような恐怖が何度も襲ってきては千鶴の胸に巣食いそうになった。そんな自分の弱さを振り払うように看病に専念して、どれぐらい経っただろう。

待ち望んだ土方の瞼が持ち上がって、その瞳に千鶴を映した瞬間をどう言葉で言い表せばいいのか。堰を切ったように溢れる感情の波は涙となって溢れ出て、暫くの間止まる事を忘れたように流れ続けた。
それからは体力を磨り減らした土方の傍で、徐々に治ってゆく傷口を見守る日々。
最近では布団から体を起こしていられる時間も長くなった人に、千鶴の心も次第に落ち着きを取り戻しつつある。

そういえば、ここに身を寄せてからずっと、外を眺める余裕などなかったから、こんな気持ちで月を見上げるのは久方ぶりだ。最後に目にした月がどんな形をしていたのか。どんな色をして、どんな印象を抱いたか。今思い出そうとしても全く出てこない。
代わりに思い出すのは遠い日の月夜。突きつけられた刃の冷たい輝きと、千鶴を見下ろす土方の背の向こうに見た、欠ける事のない月。それは思い返せば、千鶴を取り巻く新選組の幹部達が誰一人として欠けていない、懐かしく大切な日々の象徴のようだった。

欠けた部分は大きくて、とても大きくて、ちっぽけなこの身が補えるなどとは思わない。けれど、共に行く足は止めない。流山で、よろしく頼む、と笑って千鶴に告げた近藤局長の言葉が、今でも鮮やかに甦る。はい、と心の中で頷いて返事を返す。けれど、それだけではないのだ。土方の傍にありたいと願うのは。袴を穿き、男のなりをしているが、この心はどうあっても女のそれだから。
もう一度空を見上げて、すっと息を吸って、吐き出す。
零れる吐息は、やはり女の持つものだった。




土方が養生する部屋は宿の二階、その突き当たりにある。その看病に当たる千鶴の部屋は、自ら願い出て土方の隣に宛がってもらった。階段を上りきるともう一度盆を持ち直し、それまでに増して足取りを慎重に歩を進める。自室の前を通り過ぎると、土方の部屋の前で立ち止まる。千鶴が夕食をとった時、土方は床についていたから、目を覚ましていればきっと腹が減っているだろう。しかしまだ眠っている可能性もあるからと、声をかけずに様子を窺う為、そろりと襖に手をかけようとする。

と、ふいに千鶴の耳に、襖に隔てられた向こう側から声が聞こえた。
息を詰めて耳をそばだてる。言葉にすらなっていない、低く呻くようなその声には嫌というほど聞き覚えがある。さ、と自分の顔から血の気が引くのが分かった。
(まさか……!!)
慌てて襖を開けると、千鶴と共に青白い明りが室内に入り込む。その光が照らす先、乱れた布団の上には、
「――!!ひ」
叫びそうになるのを寸でのところで押し留める。叫びを聞きつけた人間に彼の姿を――布団に顔を押し付けて苦悶の声を押し殺している彼の髪は白に染まっていた――晒すわけにはいかない。開け放ったままの襖を閉め、手に持っていた盆を畳の上に置く。
食器が載っているという事を失念していたせいで、カシャンと耳障りな音が背後で聞こえたが、土方に駆け寄る千鶴には届かない。膝をつき、体を屈めて、小刻みに震える背に手を添えると、手の平から燃えるように熱い体温を感じた。
「……土方さん」
他の人に聞こえないように耳元で囁く。
広い背が揺れて、紅い、深紅の双眸が千鶴を捉えた。

だがすぐに胸元を押さえて、再び布団に突っ伏してしまう。食いしばった歯の隙間から漏れるのは、何度も耳にした苦悶の音。まるで己の心の臓をもぎ取らんとばかりに爪を立てる土方の、その指先があまりの力に白くなっているのを見て、千鶴は首元をぐいとくつろげると、躊躇いなく腰の小太刀に手をかけた。そうして土方がいつもしているように、狙いを定めて冷えた切先を自分の項の辺りに押し当てる。
「っつ!」
横に動かせば、鋭い痛みと共に何かが――鮮血が首を伝う濡れた感触。この傷が塞がってしまう前にと土方の体を抱え起こす。
「土方さん、飲んでください」
何を、とは口にしなかった。言いながら、傷を隠す髪の房を持ち上げ、いつものように顎を引いて待つと、すぐ傍で土方が身じろぐ気配を感じる。荒い息遣いが近づいてくる。無意識に息を潜めて動かずにいる千鶴の体に男の腕が回されて、強い力で引き寄せられる。直後、露わになった白い項に、その傷口に、土方の唇が触れた。

顔を傾けて、薄く唇を開き、まるで女に口付けるように千鶴の血を啜る。
そしてじわりと滲む血を舌先で舐め取る。何度も、何度も。それを直に肌で感じながら、千鶴はなるべく無心でいるために目を閉じていた。




荒い息が次第に緩く穏やかになってゆく。
体の中で荒れ狂っていた衝動の波が凪いできたのだろう。熱く湿った感触が離れて、次いで千鶴の体に巻きついていた腕が拘束を解いた。離れてゆく土方の温もりに名残惜しさを覚える自分を嫌悪する。
「すまねぇな……」
千鶴を放して、土方が真っ先に口にしたのは謝罪の言葉だった。ぽつりと呟かれたその一言は水面に幾重にも広がる波紋のように、千鶴の心を揺らめかせる。両の手で袴を握り締めて、ただ緩く首を振った。
――そんな顔して、謝ってほしいのではないのに。乱れた襟元を正しながら、皺の寄った袴に視線を落とす。この身を流れる血が全て、この人のものになってもいいとさえ、千鶴は思っている。
「だが……俺は、狂うわけにはいかない」
「はい」
「ここでくたばっちまうわけにはいかない」
「勿論です」
鬼の副長と呼ばれていたこの人が、本当に鬼のようなひとならば、こんなにも焦がれなかっただろうか。向かう想いがもっと違う形をしていたら、例えば父や近藤や松本に向けるような、澄んだ親愛の情だったならば、もう少しだけでも綺麗な心でいられただろうか。

血を差し出すのは土方の為だ。けれどそれを大義名分にして、傍にいる理由にしてやしないか。ならば土方の為と言いながら、結局はこれは千鶴自身を満たす為の行為なのだろうか。
違う、と首を振る自分がいる。だが真っ直ぐに前を見て、違うと言い切れるかと問われれば視線は揺らぐ。同時に、心も。

昔、幼い頃、本当に漠然とだが、人を想うというのは優しく穏やかで幸福な事だと思っていた。千鶴には母はいなかったが、近所に暮らす人々の営みの中、老夫婦や若い恋人が幸せに笑い合う姿を何度となく見ていた。あの頃は自分がこんな打算めいた感情を抱くなんて、考えた事すらなかった。
けれど、今の千鶴はこの想いしか知らない。苦しく、直視しがたく、とても綺麗とは言えないけれど、それでも千鶴が育てたものに違いなく、そして全ては土方へと続くものだから打ち捨てる事もできない。
そして、この役目を他の人間に譲りたいとは露ほども思わない。
まるで、目には見えない一つの入れ物に、幾つもの色をした感情が綯い交ぜになっているようだ。

「千鶴……おい、どうした。気分でも悪くなったか」
人の色を取り戻した土方が、じっとしたまま動かなくなった千鶴に眉宇を寄せて声をかける。その声にはっと我に返り振り返ると、こちらを見つめる瞳と視線がぶつかった。

「千鶴?」

低い声に滲む感情が千鶴を我が儘にする。


「――いえ、何でもありません。大丈夫です。あ、あの、土方さん夕餉を召し上がってませんよね?お夜食にと思ってお粥を持ってきたんです。よろしければすぐに温めなおしてきますよ」
「ああ、悪い。そんじゃ小腹も空いた事だし、早速よばれる事にするか」
「それじゃあ……」
腰を浮かし、火を入れに行こうとする千鶴を土方の手の平が制する。
「そのまんまでいいから、そこ置いといてくれ」
「え、……ですが」
盆と土方を交互に見やり、千鶴は言いよどむ。手に持った土鍋は随分と熱が逃げてしまっている。火を使った料理だから折角なら温かいものを食べてほしいと思うのだが、布団を整えながら土方はちらりと千鶴に視線をやって、物言いたげな表情に、微かな苦笑を口の端に浮かべた。
「散々暴れたら暑くなっちまったからな。ぬるいくらいが丁度いいんだ。いいから、お前はとっとと風呂入って寝ちまいやがれ。その目の下の隈、早く消さないと承知しねぇぞ」

鋭く睨めつけ、動物をあしらうように手を振って、千鶴を部屋から追い出そうとする。その遠回しな優しさが嬉しくて、同時に胸が苦しくなる。
父や近藤のような分かりやすい優しさではない。実に不機嫌そうな顔をして、人を心配する言葉を口にする事もある。それを見逃すまいとしている内に、いつしか後戻りが出来ないくらい――こんなにも惹かれていた。





土方の部屋を退室し、言われたように体を清め、温かな湯に浸かった後。
濡れた体を拭きながら、そっと項に指を這わせてみた。分かっていた事だが、やはりそこにはかさぶたどころか傷の痕すら残っていない。
以前は幾度も苦悩した、自分の特異な体質。けれど今となってはこんな体で良かったと思える。普通の女人と違って痕が残る事がないから、首元を晒す度、必要以上に土方の負担にならなくてすむ。


湯に浸かり、ふやけてしまった手の平を見つめる。人となんら変わらない、この肌の下を流れる血は異形のものだ。己の意思とは無関係に「雪村千鶴」を生かそうとする血の巡りは今この時も絶え間なく続いている。
ならば。
千鶴にできる事はあまりに少ない。ならばせめて、この身から溢れた血が、あの人を前へ進める血潮のひとしずくにでもなれればいい。

そう口にしたら、また馬鹿な女だと言われるのかもしれない。
それでもいい。この想いの行く末に何が待つかなど分からないが、それでも今は千鶴の方から土方の傍を離れるなど考えられようもなかった。


2009.9.6


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