身を切る寒さの中、ふと見上げた美空は青く澄んで、まるでこの女人の心のようだと思ったものだ。


                              


「これ、ありがとうございました」
そう言って差し出されたのは飾り気のない真白な無地のハンケチーフ。
差し出した人の性根を表したように、きちんと四つ折りにされたそれと、その先で寒さに鼻先や頬を赤らめて、はにかんだ微笑を浮かべる雪村千鶴を交互に見やり、蝦夷共和国陸軍奉行大鳥圭介は、ややって穏やかに破顔した。


その日、大鳥は朝の内からいつになく時間を気にしていた。
とはいえ、傍目にはそれを悟らせる事なく、常のように午前の執務をこなしていたのだが、それは、万事において勘の鋭い己の部下に不審を気取られないようにする為である。
五稜郭に集う共和国幹部の面々との会議を終え、執務室へと戻り一人になると、落ち着いた色合いの洋装の上着、その内ポケットから懐中時計を取り出しては、なにやら思案するような素振りを見せ、暫くするとまた元の場所に仕舞い込む。コツコツ、と書類に走らせていたペンの先で己の卓の端を叩く事数度。やおら椅子を引き立ち上がると、壁にかけていた厚手の外套を手に取り、軽い足取りで部屋を後にした。

馬を走らせ、白銀の港へと赴いた大鳥の目に入ったのは、白い世界の中で黒い煙を上げる外国船と、船を下りてくる懐かしい男装姿の女人の姿だった。彼女はきょろきょろと、雪に覆われた周囲に視線を動かしながら、両の手の指先を口元に当て、白い息を吐きかけている。幸いに、朝方ちらついていた雪は今は止んでおり、華奢な肩を冷たく濡らす事はない。だが、吐き出す息をも凍らせるような蝦夷の寒さは、この地に始めて立つ人間でも容赦なく襲う。
雪村君。
そう大きな声で呼びかければ、大鳥の存在に気付いた千鶴は大きな目を見開いて、そうしてその場で一度、静かに深く頭を垂れた。



三ヶ月間の時を経て自分の元に戻って来たハンケチーフを感慨深く見つめ、次いで、たった一人の男の為に荒海を越えてやってきた娘に眼差しを向ける。
「ああ、わざわざ良かったのに。これは君に差し上げたようなものなんだ。これから先、これを使う機会がないともしれないだろう?そうならないように僕も最善を尽くそうとは思うけれど……土方君の口の悪さには僕も何度も泣かされてきたからね」
悪戯っぽく目を細め、わざと茶化したように大仰に肩を竦めてみせれば、千鶴は口元に手を当ててくすりと小さく笑う。彼女の唇から零れ、震えた空気が白く宙に舞い、そして消える。五稜郭では聞く機会など殆どない女人の笑い声に、大鳥も、ふと笑みを零し、外套のポケットにハンケチーフをそっと仕舞う。と、それまで浮かべていた表情を引き締め、公――陸軍奉行としての顔を作った。

「ここまで呼び寄せておいてなんだが、この蝦夷は君も聞いての通り、榎本さんが列強各国に向けて局外中立を求め、それが認められた事で共和国を名乗っている。だが、新政府軍がこの状態を見逃すとは思えない。君が、戦に巻き込まれないとの保証はどこにもない」
そう語る己の声は硬い。
ひたりと正面を見据えて語る言葉に、偽りは欠片も含まれてはいない。彼女の事を脅しているわけでも、怖がらせたいわけでもない。
彼女に手渡した辞令は彼女の望む道に必要なものだが、いくら本人が強く願っていた事とはいえ、若く、美しく、か弱い女人をこの最北の地に連れてきた事が、本当にこれから先の彼女の為になるのか。突きつけた事実に今揺らぐようならば、あの男に一目逢う前に、この地を離れさせた方がいいのではないか。

「それでも君はここに――彼の傍にいる事を望むのかい?」
今ならば引き返せる、と。
言外に込めた大鳥に、唇を引き結び、無言で聞き入っていた千鶴は、一度その両の瞼を下げ――再び大鳥を視界に入れると、迷う事なく頷いてみせた。

「私は、もう決めてしまっているんです」

はっきりと、風に紛れぬ強さをもって、そう告げる。

「土方さんがどう仰ろうと、私も引きませんし、逃げません。私が勝手に決めた事ですから、その想いを貫く覚悟はとうに出来ています。私の我が儘で大鳥さんには色々とご迷惑をおかけしてしてしまいましたが……」
凛とした一輪花のような態度を見せたかと思えば、心底申し訳なさげな、少女のような一面も見せる。とんでもないと首を振って、そのちぐはぐさに、大鳥も漸く頬を緩めた。
背を真っ直ぐに伸ばし、逸らす事なくこちらを見つめ返す彼女の瞳に映るのは、今も、きっとこれからも、すこぶる頭が切れて、それゆえにどこまでも不器用な男の背中だけなのだろう。それにしても、一人の女性にここまで言わしめ、それでも振り返ってやらないあの男はなんと罪作りなのだろうか。
(いつまで君は意地を張れるのだろうね)
――彼女はもう、決めてしまっているというのに。


「さっきも言ったけれど、土方君の傍にいる事で涙する事があるかもしれない。それでも?」
「あの人に由来する涙なら、もう構いません。自分の手さえあれば、自分で拭います」

言い切って、ふわりと笑う。その表情に思わず見入る。

これ一つと想いを固めた、透明な美しさがそこにはあった。




それから暫くして、蝦夷共和国陸軍奉行並の傍には、寄り添うように可憐な小姓が付き従う事になる。
嬉々としてその執務室に足を運ぶ大鳥陸軍奉行が、土方陸軍奉行並によって締め出される光景が五稜郭で見られるようになるのは、更にもう少し先の話だ。


2009.9.16


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